多くの物事には真実があったりしますが、実はこれは考えようによっては非常に曖昧なものである。
何故ならば辞書によると真実の意味というのは
一般的には、他者との関係性を前提に社会で合意して共有できる皆が一致する、より公的で社会性を有する事柄を真実と言う。
これが意味としてまかり通っているのならば、ある矛盾が生じてくるわけですよ。
それよりも本当にあった事柄や現実に存在する事柄を意味する『事実』というものの方が価値あると個人的に思っている。
今日はそんなお話。
真実とは一体、何であるのか?
まずは真実ということについて。
前述した辞書に定義された意味の通りに考えてみると、真実というのは結局のところ数で決められてしまうということになる。
そうであれば、例え間違いだらけであったとしても、巨大なメディアや権威性のある存在の発信する情報にアドバンテージがあるわけです。
何故ならば、巨大なメディアや権威性のある存在の情報は、先入観が入ってしまい考えることなく事実として受け入れてしまう傾向があるからです。
特に日本においては昔はこういうことが本当に多かった。
陳腐な例を挙げさせてもらうと、昔、冤罪によって無念にも命を散らせていった罪のない人たちが多かった。
更に言えば、第三者からみて、情報元となる当人同士が嘘偽りを発信しているのならば、それは既に真実も虚偽も判断つかないということにもなる。
もはや、こう考えると真実もクソもへったくれもない。
結局のところ、我々が受け取れる多くの情報というのは、自らが体験したものではない。
例外なく間に誰かが入ってからの情報に満ち溢れているというのが現状なのだ。
それが本当なのかを一個人が確かめるには、多くの時間と、大きなコストがかかってしまう。
よって、信じざる得ないという状態に陥っているのが、一般人の我々がいるステージなのだ。
新しい時代の到来と弊害
以前は情報発信に限って言えば、前述した通り巨大なメディアやそれらを動かせる権威ある組織しか出来なかった。
ところが2000年代に突入してからは、誰でも、どんなに小さな者であっても情報発信が出来る新しい時代が到来しました。
SNSなどによって、たった1人が発信したことが拡散されて、世の中を動かすことも可能となってしまった現代。
それと同時にフェイクニュースなどに代表される虚偽や虚構の情報というものまでも、真実と曲解されて発信されてしまう弊害が起きる始末。
それは年々、凄まじい勢いで膨張していることが問題視されていることもあったりします。
総務省のホワイトペーパーから。
(総務省トップ>政策>白書>26年版>ICTの進化が促すビッグデータの生成・流通・蓄積)
2020年には地球上には40ゼタバイトの情報量に溢れかえるという計算が以前に既に予想されていました。
途方もない数ですが、40,000,000,000,000,000,000,000・・・ゼロが22個もあるわけで、単位にすると億を余裕で越えて、兆をすっ飛ばして、京、垓の域に達している。
40垓という途方もない量の情報量。
ちなみに地球上の砂を全部かき集めても1ゼタバイト(1垓)らしい。
結果的にその中から自分にとって価値のある情報を見つけ出して、選別する力というのが必要になってくるわけですよ。
ここで1つ余談をついでに記しておっくと、世界中で飛びまくっている電子メールの98%というのが、スパムメールであるということも判明している。
(受信者の意向を無視して、無差別かつ大量に一括してばらまかれる、各種ネットメディアにおけるメッセージのこと)
つまり、情報の取り方次第では、本来の自分の目的から逸れてしまうことも・・・。
実際には必要がなかった望まない別の人間の意志を刷り込まれてしまう可能性が高いということにもなってしまうのですよ。
突き詰めて考えてみると、恐ろしく由々しき事態であるとさえ感じれる現象。
しかし、こういった現代の情報社会の流れを一個人だったり、もはや一組織が易々と止められない状態になっているわけです。
つまり真実を求めても意味がないのかも
真実や事実というものは、結局のところ情報であります。
ところが真実を断定させたとしても人間というものは解釈という概念が分かれてしまうわけです。
同じ真実を受け取った私が認識した答えと、アナタが認識した答えに違いが出てくることも数多い。
何故かと言えば、私もアナタも今まで生きてきた環境や影響された者が違う。
つまり、心が違うからです。
心が違えば、情報の価値も違うということにも繋がります。
簡単な例を1つ挙げてみます。
アイドル好きの男性がいて、お給料の大半をそのアイドルを支援する為に使っている人は多い。
その人からすれば、そのアイドルに関連する情報というのは非常に価値があるものでしょう。
しかし、私からすれば『お金あげるから、そのアイドルの情報を受け取って!』と言われても受け取りません。
何故ならば私には全く興味もないことだし、時間の無駄であると思っているからです。
どんな情報であったとしても、その価値を決めるのは自分しかありえないということになったりする。
そして、その情報を信じるのも他の誰でもない自分の判断に委ねられるということ。
結果的には真実よりも事実
結局のところ、答えは価値があるとも言えるし無いともいえる。
真実という言葉は非常に重く聞こえるわけですが、実際は非常に曖昧であったりすることがお分かり頂けたでしょうか?
真実よりも事実の方が価値がある。
もう一つ例を出してみます。
今度はゲームを例にして解説してみましょう。
・ゲーム内の特定のクエストを3分でクリアしたいとアナタが望んでいたとします。
・それを3分で実際にクリアする方法を私が公開していたとします。
・アナタが私の情報をみて、同じ方法を使って3分でクリアできました。
これこそが事実であり、完全に価値ある情報であったということになるわけです。
ポイントは実際に3分で出来るのか?というのを自分自身で確かめるという検証が必要となることです。
そうでなければ事実でさえ本当に価値があったかどうかは判断が出来ないとも言えます。
業界用語では『裏トリ』という概念に当てはまるでしょうね。
私の場合、真実よりも事実に重点を置いているわけですが、他にいくつか情報収集の際には抑えていることがあります。
それは本当に自分がそれが楽しいものと感じれるのか?とか、必要と感じるものだけしかとらないということ。
そして、絶対に一次情報にあたるということです。
一次情報でないならば、間違っても信じてしまってはいけないし、行動することも危険であると思った方がいいわけです。
結局のところ、自分にとって価値あるものは、事実に近いものであり自分の目的の結果に近い情報であるということです。
真実や虚偽を正確に証明するのは困難・・・事実に重きを置く。
しかし、それよりも大事なことというのは、その情報が自分自身の未来にどう役に立っていくのかの使い方ではないのか?と私は考えているのであります。