2019年9月20日の改作分。
こちらも言ってしまえば、書いたばかりの記事なんで、あまり書き直すこともないだろう。
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ある人と話していて書きたくなったことがある。
今回は思い出話とおとぎ話を交えて、書いてみようと思う。
だからといって私が凄いとか素晴らしい人間であるということではない。
私は何の取柄もない単なる世捨て人であることを前置きに。
末っ子好きな理由
ボクサー、格闘家などの有名人の中では兄弟などで活躍している者も多い。
そんな中で私は必ず弟に注目してしまう傾向がある。
三兄弟で活躍しているならば、末っ子はどうなのだろう?と意識したり、兄弟で活躍しているならば弟の方に着目する。
何故ならば私が男三人兄弟の末っ子だからです。
歴史でも例えば元朝秘史の中であると、チンギス・ハーンの子供たちの中ではオゴタイが一番、好きなのもそんな理由から。
(オゴタイは末っ子ではないが、三男坊だったということで・・・。)
一番目は率先して一族の中では、目立ち先駆的な役割を果たす。
二番目は間に挟まれている為にグレる傾向が強いが、単純明快で豪胆な性格を持つことが多いと思っている。
そんな上二人の長所・短所を見て育つ末っ子、或いは三男坊は賢く育つ傾向が強いと思っている。
中にはそれを狡猾と評する者もいたりする。
しかし、末っ子だった私から言えば、家族という小さな世界の中においてね。
序列的に一番下という宿命を背負って生まれた故の事でもあると思うのだ。
よく例えられたのが三匹の子豚
三匹の子豚というおとぎ話がある。
三匹の兄弟豚がいるが、彼らを喰らおうと虎視眈々と機会を伺う狼との攻防を描いた素晴らしいおとぎ話。
長男豚は藁で家を建てるが、狼に余裕で吹き飛ばされて、食われてしまう。
次男豚は木で家を建てるのだが、やはり狼の攻撃に遭って家は潰されて食べられてしまう。
末っ子の豚はレンガを用いて家を建てて、狼の侵入を防ぐ。
狼も黙ってはいない。
何とか末っ子豚もお腹の中に入れようと、口八丁手八丁で外におびき寄せようとするが、末っ子豚は乗ってこない。
業にいやした狼は煙突から侵入を試みるものの、待ち構えていたのは暖炉に置かれていた鍋に入った熱湯だった。
末っ子豚は逆に兄二匹をお腹の中に入れた狼を食べてしまったという話だ。
要するに末っ子が一番、賢く育つということを暗に示した内容。
私の兄二人は正直なところ、あまり褒められた生き方はしていない。
一番上の兄は当時、それなりに名の知れた不良であったし、次男は10代の終わりには組関係に出入りしていたこともあったりする。
両者ともに顔がカッコ良かったし、過剰な程の自己主張も出来た為に、女性にモテる男ではあったが・・・(笑)
しかし、私からすれば『馬鹿だなぁ・・・』って感じることも多かった。
が、私が中学卒業するまでは、兄二人は恐怖の存在であった為に逆らえなかったわけですよ。
親や親族からは、三匹の子豚に例えられていた。
私はそんな兄の影響を受けて不良っぽくなったことも一時期はあったが、基本的には大人しく小難しい本などを読んでいて、穏やかな気持ちを忘れないようにしていたのだ。
兄二人が面倒だと思う頭を使うことなども、私は好きだった。
だから、三匹の子豚に例えられることもあった。
・・・まあ、だからこそ兄二人には『けーご、おまえは小賢しい。』『ずるい。』『ザボエラだ。』などと言われて、イジメられもしたが。
(ザボエラとは、ダイの大冒険という漫画に出てくる狡猾で残忍な主人公の敵役の一人。)
私はそんな兄には恨みはなく、むしろ感謝している。
『ああ、こうなってはいけない。』
『兄たちの様に絶対になりたくない。』
と、思ったから、兄が言うこととは反対のことをするように心掛けたからだ。
水と油と砂糖
ちなみに一番上の兄と二番目の兄は、非常に仲が悪かった。
たまに殴り合いの喧嘩をしたりして、母親が必死に止めていたこともあったりする。
私も止めに入ることがあったが、当然、その後は私が八つ当たりの対象になったりする。
どちらからもね。
しかし、立場上、どちらからも可愛がられたこともある。
なので、仕事で不在がちな両親や、親族などからは、仲を取り持つようにも言われたことがあった。
実際にその役は担っていたこともあった。
まだ私もアホな子供なのにね。
結果的にこれは大人になってからも続いたのだが、今はもうない。
先日、ある人と話していてね。
人間関係についての話をして、水と油と例えを私が出した。
すると、その人は『砂糖入れると混ざるのにね。』と言う。
そうか・・・一番上の兄が水ならば、二番目の兄が油であったのか。
さしづめ私が昔は砂糖だったのだろうと思った。
・・・いつもこういう生い立ちがあるから、中和剤の役目を担うことが社会に出ても多かったことを思い出した。
あの会社にいたとき・・・あの組織にいたとき・・・あのコミュニティに出入りしていたとき・・・
しかし、私は水と油、両方を見ているからよく分かる。
どちらも正しくもあり、間違いでもある。
だが、どちらにもあるのが、『強烈な自我欲』だ。
そこから分かることは、だからこそ争いが無くなることは難しいし、出来ることは自分がそうならないようにするしかないということだった。
今はもうそんな砂糖の様な役をするのは、まっぴらご免だ。
オーバーな言い方であるが、『殺し合いたいなら、勝手にやってくれ。』と、いうことである。
何故、エゴの強い者同士の争いの間に入らなければならないのだ?
義理はあるかも知れないが、義務はない。
その結果、何故、何も争いの種を撒いていない私が自分の貴重なリソースをロスしなければならないのか?
加えて私も最初は何もないまっさらな子豚だったのだ。
何故、それに気づかないのかが不思議で仕方が無いと今は思っている。
おわりに
2019年現在、私の兄二人が何をしているのかは知らないし、興味もない。
申し訳ないが、私のことを理解し、認めてくれた人間は、残念なことに血のつながっていない他人であった。
口では良いことを言ってくれたこともあった。
が、『おまえは下だから上の為に尽くすのは当たり前。』という考えが、いい歳になっても抜け切れていないのが見えたからだ。
私の様な選択を『悪』と言ったり、『哀れ』と思うような人間もいるだろう。
器が小さいと言う人間もいるだろう。
だが、私は全くこたえない。
暗黙のルールや常識なんてものは、誰かに都合がいい為に作られたもの。
それに誰の力も借りずに、私は一人で今の環境を作り上げた自負がある。
私は元々はアホで矮小で弱かった子豚だった。
その私が今はこうしてシガラミの無い状態で生きれているのも、私自身が頑張ったからだ。
だが、考えの一つとして、そんな兄たちがいたからなのかも知れない。
そういう意味で感謝の念を忘れない様にはいるつもりだ。
にしても、私は砂糖の様に甘い存在になるつもりもなければ、末っ子豚を演じることもない。
二度と熱く語り合うこともないだろうし、一緒の時間を共有することも長い人生において、ほぼないだろう。
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特に何も言うことは無いのだけど、こういうことを思い出すということは、まだ何処か拘りがあるのかも知れない。
まあ、毎年、秋というのは『アビス』に囚われがちになる。
なので、やたらと回顧してしまうわけですが、今年はそういうことが無いようにしていかなければ。
夢中になれることで頭が一杯になるという状況を作り出せれば、何も思い出す必要もトリガーもひくことはないんですけどね。
まあ、こんなのはその時になってみないと分からないので、今から考えても仕方が無いのですが。