相変わらず未来の在るべき姿を想像しているけーごです。
悶々とする時も多いですが、何だかんだで制約のある縛りゲームを楽しんでる感じで、割と充実してます。
今回は好きな言葉の一つである羅生門にちなんだ事柄を書いてみようか。
羅生門
羅生門とは芥川龍之介の書いた物語で、人のエゴを描いた素晴らしい作品。
誰にでもエゴはありますが、社会に揉まれて、知恵をつけて、多くの失敗と自分とは何なのか?を徐々に悟っていくと、次第にエゴは己の幸運と活力を食い潰していく悪性腫瘍であることに気づく。
よって次第にエゴは少なくなっていくものではありますが、老若男女問わずに対峙する人間によっては、凄まじいまでのエゴを吐きだすアンポンタンも多い。
私の周りの数少ない親しい人たちは、こういうアンポンタンと遭遇することが比較的に多い。
多分、それは我慢しちゃうし、優しいから。
かつて私もエゴの強いアンポンタンに傷つけられたこともあるから、心に武装を施した。
今だからこそ言える。
私は羅生門の番人であると。
羅生門の番人
私の場合は親しい人のやりたいことを止めることはない。
よく親しいからこそ、言いたいことを言い、間違ってるなら止めるべきという一般論を耳にする。
だが、これは真の意味でその人のことを考えているのではなく、単に自分の自己主張を通したいだけの場合が多いのだ。
100%失敗するとしても、本人がやりたいことがあり、覚悟があるなら、止めてはいけないのだ。
何故ならば、その人の人生は、たった一つ、その人のものだからだ。
その責任は当然、その人がとるべき。
しかし、それでもやりたいならば、やらせるべき。
『好きに生きていい。己の信じる道を行け。』
親しい人に限り、私は最後は絶対にその人の気持ちを尊重することにしている。
結果的にその人と離別することになってもだ。
だからこそ、親しい人たちを自分都合で食いものやダシにしようとしている奴らの考えていることを見破り、流されないように指摘する時もある。
付き合うだけ無駄
本来なら親しい人を自分都合でいいように操ろうとしたり、食いものにするアンポンタンの心を破壊したり、ぶちのめしてやりたいが、それはしない。
何故ならばそんなアンポンタンには言っても無駄だし、死んでも分からないからだ。
そんな奴らには一分一秒も自分の命と言ってもいい時間を使いたくない。
しかし、そんかアンポンタンと遭遇し、ダメージを負った親しい人のケアと、アンポンタンが施そうとしたカラクリを見破り、流されないように導くことこそ、羅生門の番人が出来ることと自負している。
奴らには必ず裏があり意図がある
そもそも人は単純に幸せに生きればいいだけ。
そして絶対に同じ人間なんかいやしない。
なのに、前述したアンポンタンは何故、エゴを押しつけて来るのか?
所謂、それは洗脳を試みているからだ。
洗脳して、自分にとって都合のいい人間を作ろうとしている。
エゴイストの最大の目的はココだ。
単に話し相手から、身体目当て、金や時間など目的は様々だが、洗脳されたり、そんな人間に流された相手は確実に不幸になる。
万が一、対象者が不幸と感じなかったにせよ、堕落していき、洗脳を試みたエゴイストに依存しなければ生きていけない状態になる。
私は親しい人に限り、羅生門の番人になる。
それが私の力の一つであったりもします。
ただ、私もあまりこういう力を使いたくはない。
かなり自らも精神的なダメージを負うことになりますからね。
現在は親しい人達も、自由や自立の素晴らしさを実感しているんで、私が何を言うことも、することもなくなっていますが。
今日はちょっと普段とは違う感じの記事でしたが、たまにはそれもいいですよね(笑)