見せかけの自由 -Out of freedom-

3年ほど世間一般的に言われる『自由』を満喫して、今はまた世間一般的に言われる『不自由』になっている私だからこそ言えることを書いてみます。

あくまで私こと『けーご』の自由という概念に対しての考え方ということで、閲覧者様たちには留意してもらえると嬉しい。

 

見せかけの自由

【Out of freedom】とは、どうやら『見せかけの自由』と訳すらしい。

と、いうのも、この言葉は何気にファミコンゲーム【ハイドライド3】の中で出てくる大好きなBGMの名前。


子供の頃に遊んだゲームの中の曲で、このBGMの良さも相まって、『見せかけの自由』って文言が凄く記憶に残っていた。

そもそも、子供の頃から私の中では『自由』というのがビッグキーワードだったし。

 

本題に移すとする。

結論から言って、完全なる自由というのは、ほぼほぼ実現は不可能に近いということである。

だが、それに近い状態というのは、実現可能であるし既に経験済みである。

しかし、そこに待っているのは、もしかしたら『退屈』という情動に加えた『虚無感』なのかも知れないよ。

少なくとも私はそうであったが、その多くは語ることはここでは控える。

 

自由の反対は不自由ではない

世間一般的に言われる自由の基準とは、おそらくは・・・

好きな時に寝て、食べて、遊んで、生活できる状態

のことだろう。

私は1日24時間、1年365日、好きなことが出来る状態を自由の定義としていたし、実際にそれを3年間やっていた。

 

正直、やりたいことをやり尽くした感がある。

私の場合は幼少の頃からとにかく好き勝手に身勝手に生活出来たらいいということが夢であった。

誰にも干渉されずに、好きな人とだけ遊んで、好きな様に金を使う。

誰にも迷惑かけない生活は本当にいいものであるが、叶ってしまってからというものは、元々、野心がない男なので目標を無理矢理作るということで、活力を作り出していたと感じている。

そして、かつてある人間が言ったことを実感し始めてくる。

自由の反対は不自由ではなく、責任であるということ。

 

本当に自由な状態であるのであれば、確実に本能・・・欲望のままに生きれることになり無秩序に向かって走ることになる。

この平和な日本であっても、法律にのっとって生活しているし、税を納めることで民として認められているのだ。

無秩序な世界とそんな気概の生活をしていたら、まさに堕落して場合によっては自由から一転してありえない不自由になることもある。

よって、自由な状態を維持したいのであれば、自らを律する必要があるわけだ。

そして、全てにおいての自分の生活の責任を負わなければならない。

だからこそ、『見せかけの自由 -Out of freedom-』なのですよ。

見せかけとは言っても、前述したように1日24時間、1年365日、自分の好きな様に使える。

付き合う人間も選べるし、法律に触れないことならば、何をしてもいいわけだ。

これは非常に大きなメリットであるのは、否定の余地はないと言える。

完全なる自由とは何なのか?

それでは完全ある自由というのは何なのか?

前述した見せかけの自由は私の言い方で言えば77%、自由な状態であると勝手に解釈している。

これを100%にするには、どうすればいいのか?

おそらくは100%にはできないが、90%にすることは理論的には可能だし、おそらくはそのレベルの自由を達成している方は少なからずいるはず。

それはやはり人を頼ることであり、自らの手足となって様々なことをしてくれる人に巡り合えたら、可能である。

しかし、私は他人を必要以上に頼ることは、マイルール上、破るわけにはいかないので、達成は不可能。

 

ところがここで大きな矛盾と対峙することになる。

人を頼ることになるわけなので、例え自分の手足となる人を見つけたとしても、その人も感情を持った『人間』なのだ。

裏切られた瞬間、一気に何も出来なくなり、別の意味で堕ちていくことは間違いない。

 

かつて外国で資産家の貴婦人が殺害された事件があった。

この貴婦人はある男を気に入り、自分のマネージャーとして抜擢した。

高収入であり、その土地の名士である貴婦人に仕える立場となったことで、初めは人生が開けた気持ちになった。

しかし、貴婦人の無理難題やワガママぶりに、徐々に精神を病んでいくことになり、結果的には貴婦人を殺して財産を奪うということをしたのだった。

貴婦人は数年の完全なる自由を手に入れたが、結局はその自由は男に支えられていたということになる。

完全なる自由などは無かったと言えるのかもしれない。

 

やはり、結局のところは、完全ある自由などはあり得ないのかも知れないし、そこを目指すのは非常に危険なのかも知れないね。

敢えて不自由になることで証明できる自由

私の場合、3年間の見せかけの自由を経て、結局はコロナショックで資金を飛ばして、再び世捨て人からお勤め人になることにした。

それ以前は自由な生活をしていたが、コロナ禍が起きだした頃はマスクをしていない人間を犯罪者扱いしていたために、したくもないマスクをする羽目になった。

結局は社会が生み出したルールに沿っていなければならないということで、こんな些細なことでも完全なる自由なんかないと痛感したものだ。

経済的な不安や自分自身が虚無感に苛まれたことがあったが、コロナショック以前から思っていたことがある。

それは哲学者サルトルの実存主義に根差したある考え方である。

 

アンガージュマンという自己拘束の考え方。

 

人は社会的現実に拘束されながらも、それと供に現実を作り変えていける存在。

敢えて不自由な状態に戻る・・・私の場合はお勤め人に戻るということで、その中で自分は自由であることを証明しようとしたのだ。

時間的な拘束は当然、仕事をしている以上はついて回る。

しかし、精神的にはいつだって自由であると感じているわけ。

だって、いつだって決断すれば世捨て人に戻れるのだ。

だけど、自ら進んで不自由になり、会社というものに拘束されることを望んだ精神性こそ『自由』の証明であると強く言える。

 

そして仕事の為に時間を拘束されている状況だけど、それを自らが望んで飛び込んだことは私の自由意志。

だからこそ、どんな状態であれ『見せかけの自由 -Out of freedom-』なんですよ。

 

自由と無関係なもの

自由になったら私は幸せだと思っていたけど、全くもって別物。

これは個々の価値観によって、まるっきり違ってくるわけだが、敢えてここでは違うものであるとする。

人によっては自由な状態になったら、気が狂う人間もいると思っている。

 

自由気ままな世捨て人の時も、私は幸せを感じていた。

現在の社会人生活も私は幸せを感じているし、充実していると言える。

 

どちらにもメリット・デメリットがあるわけであり、それを細分化して説明することはここではしない。

あくまで何をどういっても自由を手に入れるといっても、完全なる自由はありえないわけであり、そのほとんどが見せかけなんだよ?ってことを答えとして、締めくくるとしよう。

経験者は語るってことで捉えてもらって差し支えありません(笑)

 

最後まで読んでくださってありがとうございます。

感謝していますよ~♪

では、またの~(´Д°)ノシ

 

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