このウェブログ【たった一人の魔道】は基本的に好き勝手な自分の心の中の言葉を書いている。

が、基本的なコンセプトは『たった一人』という言葉をテーマにつづっている。

そもそも、たった一人に拘る理由というのは何なのか?を、今日は軽く思い出話と供に書いてみようと思います。

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特別な理由があったわけではない

私は幼少期やこれまでが悲惨な体験ばかりであったわけではない。

決して裕福な家庭で育ったとは思わないが、本当の優しさを教えてくれた祖母の存在。

反面教師となった一部の親族、今は会うことも無くなった数多くの人生の先輩たち。

ありとあらゆる人間に影響を受けて、現在の私がいる。

少なくとも四十年、長い人生の中、供に時間を共有し続けるであろう数少ない他人もいる。

人は一人では生きていけないのだが、一人で戦うことは可能。

そうすることによって、本当の自分が満足できる行き方が出来ると考えているからである。

満たされない気持ち

今まで100%他人を信じて、身を任せて、心底、良かったと思うことは、ただの一度も無い。

現在の自分の考え方からすると、それは当たり前。

何故なら、それは相手に依存していることになるから。

依存された相手は、大なり小なり必ず持て余す様になり、自我欲を剥き出しにしてくる。

そして一旦は信じて愛した筈の人間関係に亀裂が生じて、徐々にそれは広がってくる。

性格の違いや、相性という問題もあるだろうが、依存したこともあれば、依存されたことがあるから、よく分かっている。

本当にその人と長い間、良好な関係を保つためには、適度な距離感と忘れえぬ配慮が、必要であると感じているのだ。

だとすれば、依存ということはありえないのだ。

お互いの望みが合致し、距離感と配慮が続くのならば、それこそが相互依存という最高の関係性が成り立つのだが、それは別の話。


自分以外に見つけられない

そして結局のところ、自分自身の幸せな形というのは、誰に与えられるものではなく、教えられるものでもない。

自分で考えて、自分で創っていくしかないのだ。

そう考えて、その時、その刹那、自分の出来る限りのことをやっていくと、次第に人生が好転していくことに気づいた。

当然、その結果、私の見ている世界から離れていった人間もいたし、私が自ら縁を切った人間もいる。。

しかし、自由を手に入れた私には、それ相応の同じ価値観を持ったり、そうなりたいと願う人々が傍にいるようになったのだ。

他人は自分の鏡であると、誰かが教えてくれたのだが、現在、それが十二分に理解できる。

もしも私がこの生き方を捨てて、常に人・・・何はともあれ、寂しさを満たす為だけの行為を送っていくとどうなるか?

答えは簡単だ。

再び元の捨て去った世界に戻るだけである。

そして、焦燥感に駆られ続けて、『こんな筈ではなかった・・・。』と後悔をする人生になってしまうのだろう。

自分の道を作る存在は?

私の元いた世界は、何はともあれ、人、人、人。

小さなヒエラルキーの中で、飯を食った数だけが多い人間が優位に立ち、自分都合の押し付け合い。

依存が依存を呼ぶ・・・そんな小さな社会。

でも、今はそんな元いた世界に感謝してやまない。

何故ならば、そこで生きていたからこそ、痛感したことがある。

人を意図せずに不幸にしてしまう人間が、どういう考え方をして、どういう言葉を吐き、どういう行動に出るのかが分かったからだ。

自分にとってのヴァンパイアが、どういう存在なのか?

これが分かった上で、選別をしていくだけで、確実に好転していく。

現在は、誰か特定の人間に依存しなくても、充分に衣食住を賄えるだけのインフラが整っている。

そんな環境と場所から、今はもう会わなくなった彼らに、私は密かに問い掛けている。

もう時代は変わっている。

それに気づかないのは、、幸せなのか?

それとも、愚かなことなのか?


覚悟を決めて檻から飛び出した瞬間、誰でも自由になれるが、生半可な気持ちでは確実に不幸になるのは、依存が抜け切れていないからだ。

最後まで読んでくださって

ありがとうございます。

感謝しております。

Everything is going well!!

全てはうまく行きます。

それでは、またね^^

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