【飢狼伝】という漫画が凄い好きな私。

『武』という概念に関して、突き詰めて表現している物語と言えますが、【飢狼伝】の内容のなかで、私が大事にしている考え方を捉えている記述があります。

今日はそんなお話をしてみたいと思います。

Sponsored Link

極めることは必ずしも結果に繋がらない

【飢狼伝】の内容を知らない人には、少々、分かりづらいと思いますが、敢えて書いてみます。

主人公・丹波文七が一番、好きなわけですが、実際に考え方や生き様などで、私と似ている考え方だと感じるのは別の登場人物。

漫画では最後の方に登場する村瀬豪三という登場人物がいます。

このキャラクターのモットーは『全課目で100点を取る必要はない。 100点満点と闘うなら、20点づつを六課目。 合計120点。 物理的に勝ちは転がり込む。』というもの。

そして、この村瀬豪三というキャラクターの目的は”勝負に勝つことであり、チャンピオンを狙っていない”ということ。

私は武術家でもないし、そもそも人と争うことを極端に嫌っているタイプの人間。

そもそも競争などは馬鹿げている行為でしかないと私は思っているのですが、実際に『これを私は今までやってきたなぁ・・・。』と再確認できる内容でした。

まぁ、他人と競争して勝つということは、喜びには繋がりますが、それは長い目で見ると、あまり意味のないことであったりします。

何故ならば、後に必ずと言っていい程、『落ちる』からです。

 

手段に拘ることで

【飢狼伝】の話で言うのであれば、要するにストリートファイトで一番、強いのは誰か?ということです。

結局は相手を叩きのめしたら勝ちということであることが前提。

空手、ボクシング、プロレス、キック、合気道、柔道、喧嘩など、使える方法や道は沢山ある。

しかし、基本的に何でもアリの場合は、空手を極めることは、反対にそれだけしか出来ないということに繋がります。

そんな世界で戦う為には自らが『全方位型』になる必要があるということであります。

一つのことだけを突き詰めるというのは、『』になるということであり、『結果』に繋がることは逆に難しくなる行為と言えなくもないのです。

まあ、どんな結果を自分自身が望んでいるのかによっては、一つのことだけを突き詰めてやることは有効的な手段である場合もあるのは否めませんが。


星というもののデメリット

特定の世界で生きる場合、そこには優劣というものが人の主観によってついて回ります。

基本的に人は比べることで、自分の立ち位置を把握したり、価値を見出そうとするクセがあります。

ところがそんなものは実際には個々の主観でしかない。

一番、大事なのは自分の気持ちであって、他人の評価などは自分の幸せに一切、関係がないのです。

場合によっては、祭り上げられるだけの存在に終わり、一時的には良いにしてもかえってその後は自分という存在が使いづらくなるリスクもあるからです。

自分自身は、たった一人自分だけのものなのに、それが使いづらくなるということほど、悲劇はないのではないかと私は感じるのです。

 

どこに到達したいのか?

最終的な自分の目的によって変わってくる。

自分自身が『友達100人欲しい。』とか『孤独感を感じたくない。』とか『誰からも好かれる人になりたい。』というのが望みならば、確実に村瀬豪三の様な考え方で事を行うのは、目的からは遠ざかると思います。

特定の物事でチャンピオンになるというのは、それだけで目立ちますからね。

目立つということは、それだけ注目を浴びることになりますから、人の興味を惹きつけやすいわけです。

ですが、自分の目的がそこではなく、人ではなく自分がどうありたいのかによっては、非常に村瀬豪三の考え方で事を行うことは、効率的で合理的であると感じて止みません。

何かを極めるというのは、所謂、特定の物事で『Master』になるということ。

それが必ずしも自分の幸せに繋がるということでもなく、それはまた別の話ということにも繋がるのです。

場合によっては結果そのものを出すことが本当の意味での『Master』になるのではないかと。

 

 

最後まで読んでくださって

ありがとうございます。

感謝しております。

Everything is going well!!

全てはうまく行きます。

それでは、またね^^

Sponsored Link