絶望と輪廻の果てに到来した刹那に何を想う

厨二病全開なタイトルですが、あんまり深い意味はないです。

ただ自分の現在の心境や1年間、世俗的なことに触れてきた上で思うことを記したいと思ったまでです。

無駄に長い記事になると思うので、疲れてきたら直ちにブラウザの戻るクリックを押してもらうといいでしょう。

 

逃れられない現実がそこにある

自分自身の理想の生活って何でしょうかね?

多くの人間は自分勝手に・・・』『自由に・・・』『欲望のままに・・・生きていたいというのが理想だと思う。

人によってはこの堕落した世界を変えたいとか腐った世界にバックドロップ!という高尚な気持ちでブランディングしている人もいるだろう。

やたらと他人を意識して、自分自身の限りあるリソースを浪費している。

そしてそれが誰かの経済効果になっていたりするということを認識している人は少ないと思う。

 

我々というのは、ただ生きているだけでマイナスを量産して生きている。

マイナスというものは、誰かのプラスになっているので、これがそもそも経済活動になっていたりもする。

それで世界が回っているのだから、誰でも生きているだけで価値になっていると言えるのですよ。

 

だが、しかし・・・

自分自身が生きていて楽しいとか清々しいとか充実していると感じるのは別の話であったりする。

 

自分の聖域を持っているのか?

人間は誰しも自分自身の安住のフィールドを持っていると言える。

私はそれは『聖域』と言っていたりする。

聖域とは人によっては人間関係が織りなす一つの世界を指したりもする。

人によっては環境そのものを指すだろうし、自分自身の心の在り方を聖域として考えている場合もある。

 

私の場合は自分の住んでいる環境と自分の心の在り方を聖域と認識している。

この聖域が何かの形で侵された場合は、自分が自分でいられなくなるし、それを守る為には何をすることも厭わない。

しかし、この聖域というものは、あくまで自分自身にとって安住の地であったり、心休まる場所や想いだったりする。

なので、他人にはどうでもいいことであったりするし、価値があるものではないのだ。

 

要するに自分自身に何らかのプラスを得たいのであれば、この聖域から抜けて外に何かを提供し、自分自身のリソースにマイナスを生み出さなければならない。

聖域に居ながらにして、プラスを得続けるということは不可能ではないが、その土台というものを予め創って置かなければならない。

そして、それはそこに至るまでには、並大抵のものではないことが多い。

 

お金を例にとって、これを解説してみよう。

説明するのには非常に簡単になるので(笑)

 

自分は好き勝手なことをしています。

人のことなんかでどうでもいいし、自分は思いのままの快楽を享受して、産廃ライフを満喫しています。

こんな夢のような生活をしていると、普通ならばいつかは破綻する。

ところが全く破綻しないというのは、不労所得があったりするからだ。

 

2億円のお金があったとして、利回り3%で運用していたとする。

トータル年間600万円が自分の懐に転がり込んでいるわけだが、これは月に換算して50万円。

月収50万円という言い方は不適切だが、そう言ってもいいだろう。

税金を支払わなければならないので、50万円丸々使えるわけではないが、こういった状態を創り出すことが出来れば、もはやマネーゲームはクリアといってもいい。

 

問題は2億円をどうやって貯めて、資産運用に回すかというのがポイントである。

そこまでが難しいわけであり、利回り3%の案件を見つけられるかどうか?という新たな問題になってくる。

 

あくまでお金という形で解説したが、自分のリソースというものはお金だけにあらず。

【たった一人の魔道】を読んで下さっている稀な読者様たちならば説明する必要がないだろう。

 

自分の聖域があるからこそ、自分自身の人生を謳歌出来るわけであり、それを守りながら攻めに転じるという行動そのものが生きるということである。

 

絶望と輪廻の果て

聖域を守ることが出来なかった場合、聖域を無くすかも知れないという恐怖に苛まれる。

この2つの情動が去来するときに人が感じるものは『絶望』という強力なネガティブイメージである。

 

世の中には自分自身が絶望を感じて、志半ばにして終わった人間が多いわけである。

その人間の想念や残したものなどが、周り巡っているのが現世界であることを知っている人間は果たしてどれだけいるのだろうか?

 

輪廻という言葉がそれに合うと私は考えている。

もしかしたら私・・・もしくはアナタが今、所有しているリソースの多くは、過去に絶望を感じて潰えてしまった人間の想念から出来ているのかも知れない。

 

こんなことを考えていると、それ以上に人間の活力を失わせる強力な情動が起きることがある。

個人的にはそれは虚無感というものである。

 

何をしても虚しいわけであり、そこには楽しいと感じることもないし、無気力・倦怠感が起きる。

要するに捨て鉢状態、どうでもいいや感が起きるわけであり、これは人にとっては非常に危険な状態であると思うわけだ。

その切欠というのは、何かに対して絶望したり、期待を裏切られたり、何かに幻滅したりという強いネガティブイメージを垣間見た時だったりする。

 

聖域から出て行く限りは、こうした事に直面するのは避けられないと自覚するべきなのだと思って止まない。

 

その刹那に何を選択すればいいのか?

要するに自分自身が絶望したり、幻滅したり、裏切られたりということは、生きてく上では当たり前のようにあるということを踏まえておく必要がある。

そんなことなどは一度と経験したくはないが、そうなってしまうのが人間社会である。

何故ならば、人それぞれ聖域の種類や在り方、姿形が違うからだ。

 

大事なことはそんなことが起き、その刹那に強力なネガティブな情動が心に発生したとしても、迷うことは無い。

 

そもそも、私も含めて、その原因となってしまった他者や特定の物事は、元々、生まれた時から傍にあったものなのか?ということを考えると答えは見つかる。

答えは無いのですよ。

 

ならば、それを失ったとして何も恐れることは無い。

結局は自分が思っていた人、物、お金、情報、時間、エネルギーは、オアシスではなかったということである。

 

そんなものに流される必要は微塵もなく、自分自身が本当に大事なものを創るなり見つければいいだけの話である。

そもそも、この日本に生きている限り、全人類というカテゴリで見るならば、充分、満たされているわけだ。

 

まあ、20年後はどうなっているか分かりませんけどね(笑)

 

追伸

何故、こんな記事を書いたのか?と言えば、単に自分自身のセルフコーチングの一環です。

少々、この数週間で色々なことがあって、自分自身のセルフイメージがガン下がりしてしまったわけで、ヤバい状態であると思ったからです。

そんな気分で迎えた今日の朝のイマソラは美しかった。

 

今日、出来ることをひたすらやっていくだけしか出来ないし、それの積み重ねしか未来を創っていくことが出来ませんから。

 

自分自身の魂だけは何者にも、何物にも汚染されない様に心掛けながらね。

 

ここまで読んで頂いてありがとうございました。

あまり読者様には有益な記事では無かったかも知れませんが、感謝しています。

では、またのう(´Д°)ノシ

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