律 -LAW-

どういうわけか分からないが、

 

自分はこれをやってしまったら、良い結果に繋がらずに不幸になる。

 

と、いうことが少なからずあったりするだろう。

 

私はそういった事柄や付随する概念を(りつ)と呼んで、日々、自分の律を探していることが多い。


あの人と同じことをしたから、自分にも同じ結果が出るだろうという期待。

 

この人にも出来たんだから、私にも出来るだろうという思惑。

 

しかし、その通りにならないことが多々ある。

 

一生懸命、何かに対して努力していたり、我慢していたりするのは、ハッキリ言ってしまえば皆、同じ。

 

だけど、『自分がうまくいかない・・・不幸じゃん( #`ー´)ノ』と、いうのは何なのか?

 

私の経験則で言うと、そういう場合は己にある『律』に背いた場合に不幸が発動する。

 

『律』とは

特定の物事を行うにあたっての基準となる掟

で、ある。

 

そしてこの『律』というものは、ハッキリ言って個人個人違うものであると思われる。

 

自らを追い込んで、背水の陣を敷いた上で無いと、頑張れないし良い結果に繋がらないという律を持っている人もいる。

 

私に投資の基礎を教えてくれた先生は、そんなタイプの人であった。

 

傍目から見て全くそういうタイプには見えないのだが、自分でそれを告白していたのが今でも記憶に残っている。

 

かといって、私がある一部分で最も影響を受けた人であったにせよ、私は同じことをしようとは思わない。

 

何故ならば、私は私で自分の律の一部分を既に見破っているからだ。

 

私は基本的に行動派であり、感情的になるタイプであった。

 

その結果、多くの損をしてきた経験がある。

 

若い時は人のせい、会社のせい、社会のせいにしたりして、自らを慰めていたアンポンタンだったこともある。

 

しかし、今はそうではなく、何故、頑張ったのに自分は幸せになれない??という疑問の答えは

 

己の律

 

を破っていたからだ。

 

一つ、絶対的な『けーご』の律をカミングアウトしてみよう。

 

私は絶対に伸るか反るかという50%50%の勝負は9割型負けるようになっている。

 

もちろん人によっては勝算が1%であっても、勝つ人もいる。

 

誰がどう見ても負けるに等しい『勝負』に勝った経験はあるものの、そんなの絶対に続いたことはない。

 

ずっと強運を発動させ続けるようなそんなカッコイイ芸当は私には出来ない。

 

これは様々な世界で生きてきた経験則で痛い位によく分かった律なのだ。

 

そこから分かることは何はともあれ私が自分自身のポテンシャルを最大限に発揮する為に必要なことは

 

余裕

 

を作る事であったのだ。

 

人間関係の余裕。

物理的な空間や物への執着を無くすことによって生み出される余裕。

お金に対しての余裕。

心を司る様々な情報空間に余裕を作る行為。

全ての根源であるといってもいい時間への余裕。

 

人間は感情の生き物であるので、その時、その刹那の状況によって、律を破りやすい。

 

それを冷静に判断するのが理性であると私は思っているよ。

 

では、そんな人それぞれの律とはどうやって分かるものなのか?と、言えば、

 

この答えは

 

失敗する

 

しかないと思われる。

 

失敗を多く積み上げることでしか、見破ることが出来ない。

 

また賢い人は、人の振り見て我が振り直せが出来る人であるが、これも一概に良いとは言えない。

 

人は成長の為には敢えて失敗するという能動的な動きも必要だからだ。

 

短期的に失敗だったとしても、それが長期的には成功への階段の上り口だったということも沢山ある。

 

私で言うのであれば、30歳の頃に店をやって400万円の借金をこしらえたことがある。

 

店を諸事情でたたんでからは、7年かけてそれを返済した。

 

苦痛だったけど、その経験があるから今、自由な世捨て人生活が出来ている。

 

失敗して気づいたから、自分の律を見破り、同じ轍を踏まないという信念が生まれたのだ。

 

・・・まあ、世の中には何度も同じことを繰り返して、周りに自分の不幸を振りまいて迷惑をかけている進歩の無いアンポンタンも多いけどね。

 

自分が自分でいる為に、そんなみっともない生き方は許容出来なかった故に、私は本当は大嫌いだった心の力である忍耐を養ったのだ。

 

そして、振り返った中では自分が明らかに『成功』といえることをした時は、どういった考え方だったのか?とか。

 

これも自分が普段、あまり意識出来ていない『律』を明確化する一つの方法でもあったりする。

 

私の場合は

 

淡々としている。

 

というのも律の一つ。

 

喜怒哀楽愛憎の人間特有の六情を感じている時は、本当に生きている実感がする。

 

だが、そんなことを考えているのではなく、ただひたすら『やっている』という場合に、良い結果が出る。

 

後から振り返ってみれば、よく俺、あれをやっていたなー(;^ω^)ってこともあるくらいだよ。

 

私が影響を受けた人の中で、これをずっと崩さない人がいる。

 

と、いうか単純に色々と考えることが面倒くさいだけで、ただひたすら目の前のことをやる。

 

そして、自分のリソースを無駄に使わないということを破らないだけで、この人は特に目立ったことしてないけど、やはり屈託なく幸せに生きている。

 

と、いうか自分が不幸であるとか幸せであるという自覚すらないのだが( ̄▽ ̄)

 

何にせよ自分自身の律を自覚していようが、いまいが、その律に沿っている人間というのは、事故でも起きない限りは必ず自分なりの幸福な営みが送れるようになっているのだろう。

 

そして、こうやって自問自答しながら、自分の律を見破り答えを突き詰めていく行為そのものが・・・

 

 

哲学

 

 

であると私は信じて疑わない。

 

自分の律を見破り、同じ轍を踏まないということで、自分が結果的に勝ったぜ!『幸せだな~~♪』『ふぉおおおお!と実感がわいたのならば、それが成長したという証。

 

そして、こういう自問自答して、自分で自分と向き合うことは、おそらく一生続いていくのだろう。

 

それが苦痛であるかと言えば、そうではないし楽しい。

 

もちろん、哲学していくことにも時間的余裕、経験出来るあらゆる余裕が必要なのだが、それはまた別のお話。