私が今の土地に移住してから、4年と166日。
移住後に程なく見つけたお爺ちゃんが営業している弁当屋を見つけた。
久しぶりにお爺ちゃんの弁当を昨日、買って食べたのが、妙に幸せな気分。
そんなわけで今日もいってみようかね。
そこに辿り着く為の道程
『こうなりたい。』『ああなりたい。』という渇望は誰でもある。
特に子供の頃は夢に満ち溢れていて、自分には不可能なんてことはないと感じて生きている子が多いだろう。
しかし、齢を重ねていくごとに現実の壁が押し迫っていくのと同時に、アホな大人たちがテメエの価値観や経験則を押し付けてくる。
その結果、夢を忘れてしまい、手近でまとまるようになり、数で彩られた空間に安息を抱くようになる。
まあ、子供のうちは、何をどうやっても大人たちの力添えが無くては生きていけませんからね・・・。
なので、自分がどんな大人の庇護の元で生活していくのかというのは、運以外の何物でもないのだろう・・・。
と、まあ、今回、記したい内容は、セルフイメージの話でなく、他のこと。
夢や目標なんかは、どんな自分になっていたとしても持つことは出来るし、大概は実現可能。
しかし、過去に植え付けられた価値観や、その時の状況、人間関係などによっては、その夢や目標に至る道は険しく苦痛を伴うことのかも知れない。
ちょっと昔話・・・
最近は昔話が多いが、今日、記したいことにガッチリと繋がるので書いてみたい。
2015年2月、3月にある事が起きた。
そのことが切欠で私はそれまでの環境から飛び出すことを決意する。
正直なところ、この時点では貯金は40万くらいしかなかったし、同年8月までは借金が残っていた。
経済的なことも考えて、ぐっと我慢して、元いた環境に居続けることは出来た。
だが、私は飛び出した。
2015年4月10日に現在の住まいにきたのだが、その時はまだ寒くてね・・・。
幸いなことに大家さんが凄く良い人で、エアコンもない住居に来た私を気づかって、灯油ストーブを貸してくれたっけ(^ω^)
飯まで作ってくれると言ってくれたが、さすがにそれは丁重にお断りしましたが(笑)
(この時のことは今でも鮮明に良い思い出として残っている。 いつか動画付きで赤裸々に語りたいものだ(^盆^))
ハッキリ言って、以前より生活レベルは落ちた。
だが、私は逆にこれからが楽しみで仕方が無かったのだ。
Dizzy Mizz Lizzyの『I Would If I Could But I can’t』を聴きながら、己を奮い立たせて笑いながら仕事に行っていたっけ。
当時、私の上司だった人が口癖のように私を含む若い衆に言っていたことがある。
『人間、働いていれば何とかなるからな?』
単純明快で当たり前のことだけど、この人の口癖が凄く当時の私に生きる活力を与えてくれた。
貯金は半分なくなり、エアコンも無い、ネット環境も無い状態でスタートしたが、私はこう思っていた。
『ヒーハー! これからこの更地に何を植えていこうかな?!』
『別にいいさ。 一年、二年かかってもいいから、俺だけの為の快適な空間を作るのだ(´Д°)』
なので、楽しかったのですよ。
仕事も楽しみながらやっていたっけ。
7月くらいになって、だいぶ新生活にも慣れたので、新たな目標を持つことにしたが、これは別の話。
要するに傍から見て辛いことであったりしても、自分が楽しいと思っていれば順応していくし続けられるものなのですよ。
続くということは、結果が出ない方がおかしいとも言える。
そんな今の私の生活環境は快適そのものであり、誰にも邪魔されない穏やかで何かに集中するには絶好の場所だったりします。
・・・そういや、10年前に蜃気楼の様におぼろげだけど、自分の理想の生活ってのがあったっけ・・・。
実はそれは今、ほぼ全て叶っていたりします。
別の例で伝えようか
”辛いことでも楽しければ続く”
私はこのことを分かりやすく人に伝える為に、よくゲームの話をする。
人にやらされているものだったり、自分がやりたくないことをやっている時は、時間の経過は遅く感じる。
加えて疲労感も飛躍的に高くなるのは間違いない。
場合によってはたった1分も耐えられないということもあるだろう。
しかし、『やりたい』と感じるゲームなどは、数時間から24時間ぶっ続けでやってのけることも出来てしまう。
子供を見れば、よく分かるだろう。
私、昔、数か月プレイしていた【幻獣契約クリプトラクト】というソシャゲを去年の11月から再びプレイしだした。
3年間全くやっていなかったので、浦島太郎状態であったし、進化した幻クリの仕様などに明らかについていけてなかった。
でも、楽しいゲームであることは分かっていたので、試行錯誤してあらゆるところから情報を得て、遊び出した。
ソシャゲの特性上、重課金を行えば、時間を短縮して『俺、TUEEEE(´Д°)凸』出来るわけだが、そんなに課金もしないで、3月くらいには充分に楽しめる状態になっていたのだ。
決して今もトッププレイヤーではないが、クリア出来ないクエストは無いし、自分なりの楽しみ方や編成なども出来ている状態。
それもこれも分からないながらも、その時、その刹那に楽しみを見出して、『やらなければならない』のではなく『やりたい』という気持ちを持って望んでいたからだ。
ゲームに限らずね・・・。
『金はないけど、金がないなりに楽しむ方法や出来る方法はないだろうか?』(このマインド重要w)
『時間がないけど、やらなくてもいいことって何だろう?』(ハッキリ言って、無駄なことに時間使い過ぎな傾向がある。)
『情報が無いんだけど、ネットでちょっと漁ってみるか・・・。』(知りたい事の9割型はネットで検索すれば、答えがあります。)
『人がいないんだけど、一人で出来るとこまでやってみよう。』(何をするかにもよるけど、他人は邪魔になることが多い(これマジw))
『物はないけど、何とかならないかな?』(物に依存する行為そのものは、多大なロスを生みだします。)
こんな感じで考えられるのも、自分が『やりたい』ことだからだ。
敢えてもう一度言うが、結果が出ない方がおかしいだろう。
おわりに
夢や目標というのは、蜃気楼の様に手に触れられないまま消え去ることが多い。
大体、これは周りの環境やその時の人間関係などに流されてしまっているからである。
このメカニズムは説明できるが、ここでは書かない。
ただ、何事も楽しみを見出して『やりたい』という気持ちになれば、いくらでもそこに自分のリソースを注ぎ込む気持ちになれる。
前述した私の過去の生活。
それまでより生活レベルが落ちているわけだから、普通は苦痛に感じるはずだ。
だが、私は楽しんでたし、未来に自分だけの場所を作るという気持ちがあったから、続けられた。
誰の力も頼っていない、たった一人、私だけで作った。
3年間辞めていたゲームであったけど、楽しいから続けられた。
結果的にクリアできないゲーム内のコンテンツは今後もないだろうし、自分なりの遊び方も構築できている。
楽しみを見出す観点と物の見方。
同じことをやっていても人によって何で差が出るのか?
『楽しいか』『苦痛』を感じているかの違い。
総じてそれらは意識の違いと言われたり、センスの問題と言われたりする。
ちょっとまとめづらかったけど、結論はそこに至るまで『楽しめるのか?』『楽しめないのか?』。
それによって蜃気楼が消えて無くなるか、蜃気楼ではなく実物だったとなるのかが、分かれるところでしょうね。
最後まで読んでくれてありがとう。
見つけてくれて、感謝ですよ。
では、またね~(´Д°)ノシ