『虚像』と『実像』の狭間で何を願う?

最近、音楽を聴きながら、キーボードを叩くことが増えたと感じています。

 

聴いている音楽はゲームの音楽だったりするわけですけどね(笑)

 

幻獣契約クリプトラクトの音楽って、気持ち良く感じる音楽が多いんですよね。

 

そんなわけでいってみますか。

 

常に矛盾の中で生きている

本当の自分をさらけ出したら、それまでの人間関係や取り巻く状況は壊れることが多い。

 

しかし本当の自分を曝け出さなければ、満たされることも叶わないので、幸福を感じることも少ない。

 

そんな矛盾の中で生きているといってもいい多くの現代人。

 

私も例外ではなかったりしますが、自由気ままな世捨て人になってからは、そんなジレンマは少なくなったと思う。

 

もしかしたら幸せを掴むという人生最大の目的というのは、出来るだけ数ある矛盾を一つずつ潰していく作業の連続なのかも知れない。

 

今回は『虚像』と『実像』という対照的なキーワードを例に見つめていきたい。

 

虚像同士が多くを円滑にさせる

『虚像』とは真実の姿を見せていない人物像であり、『実像』とは対照的に本当の姿である。

 

誰でも経験あることで言えば、多くの場合は、仕事をしている時の自分だ。

 

『実像』そのまま仕事として出せる人間は、全体を通してみると極々、僅かな人間に限られると言っていい。

 

人間は限りない自我欲があり、他人同士、それらがキレイに一つにまとまることはありえない。

 

一つにまとまることがあるのならば、争いなども起きないし、立場が変われば考え方も異なるからだ。

 

なので物事を一つの方向にうまく行かせるためには、それぞれが『虚像』の自分を出して、円滑化を図るのがセオリーである。

 

自我欲が強く、表に出し続ける人間は、それが余程、組織の価値にならない限りは、時間と供に淘汰されていったり、自滅していく。

 

それを防ぐためには個人差はあるものの、各々が『虚像』を作り出して、それを現実に投影させて過ごしていくことになるのだ。

 

それによって自分の生活の糧を継続して得ることが出来るわけであり、形あるものを残すことで価値を作り出していくことに繋がる。

 

大概は自らの恩恵に繋がって返ってくることが多いのだが、精神的には疲弊していく。

 

何故ならば、それは『実像』ではないからだ。

 

実像とはシンプルな自分の姿

『実像』は至ってシンプルである。

 

素直に欲望の赴くままに、言動、行動を表に出した姿そのものが『実像』だ。

 

欲望の形はそれこそ人それぞれなので、それはここで語るには及ばない。

 

だが、『虚像』は真実の姿である『実像』ではないから、本当の自分ではないというのは浅はかであると言える。

 

そもそも『虚像』があるからこそ、物事がうまくいくといってもよく、これは様々な経験に基づく失敗や成功体験などを踏まえた上での、成長した姿であるといっていい。

 

つまり後天的な自分の像がすなわち『虚像』であるということに他ならない。

 

時には『実像』をそのまま全面的に押し出した方が、物事がうまく行く場合もある。

 

『実像』を出すことによって、他人から良い様に利用されることも無くなる利点もある。

 

だが、『実像』をそのまま出してしまった時には、それまで積み重なった道程が塞がったり、壊れたりすることが多かったりするのだ。

 

つまり『虚像』と『実像』をうまく使い分ける第三の像が存在しており、自覚できれば、それこそが本当の自分と言えなくもない。

 

しかし、大抵は『虚像』に疲れ果てて、『実像』を出してしまうということばかりが多いと感じる。

 

それによって自分が本当は望んでいない結末や道を進まなければならないということもある。

 

そこがおそらくなかなか多くの人間が気づけないところなのだと思って止まない。

 

第三の像こそ・・・

人によっては、第三の像が無い者も数多い。

 

第三の像を持つ人間・・・持ち得る人間というのは何はともあれ『結果主義』の人間であると言える。

 

何に対して結果を出したいのかというのは、人それぞれであるものの、とにかく自分が定めた目的へ行く為に・・・ゴールをきるため。

 

自分が出来ること、成すべきことを何が何でもやるという人間が、いずれ『虚像』と『実像』を使い分けてコントロールすることが出来る様になる。

 

そこに到達するには、『実像』を前面に押し出して、短期間でも満たし続けて、自分の為に結局ならなかった経験が必要である。

 

加えて『虚像』ばかりを演じ続けて、精神的に疲れ果てて自暴自棄になってしまった経験も必要。

 

両極端を経験した上で、まだ自分自身に何かの渇望があるのならば、第三の像が生まれるということだ。

 

 

あくまで今回は『虚像』と『実像』というキーワードを元に書いてみた。

 

言葉でいうならば、『本音』と『建前』。

 

心の概念でいうならば、『理性』と『感情』。

 

そんな具合であり、それらをもっと大きな姿形であらわしたのが『虚像』と『実像』ということと言ってもいいかも知れない。

 

あくまでこれは私が思っていることであり、特にこれに関して明確な定義などは必要ないと思っている。

 

何はともあれ我々が目指すべきものは、自分自身の幸せの形を掴み取り、享受することだ。

 

それが例え『虚像』ばかりの慣れの果てでも、『実像』オンリーの時間の経過でもいい。

 

本人が良ければそれでよく、願わくば周りも一緒に幸福に満ちていれば良いだけだからだ。

 

今回は少々、分かり辛く固すぎて難しかったかも知れないけどね。

 

ある人と話していて、何となく思ったことを書いてみました。

 

 

最後まで読んでくれてありがとうございます。

 

見つけてくれて、ありがとう。

 

では、またのう(´Д°)ノシ

 

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