白いボディで何処かお気楽に空を舞い続けるカモメさん。
漆黒の甲冑を身にまとう、みんなの嫌われ者、ゴキブリちゃん。
そんな二つの生物と絡めて、大事にしている考え方みたいなものをつづってみます。
最初にお断りとして
結論からいって、伝えたいテーマは大局と小局ということ。
人によっては森を見るの? 木を見るの? とか、鷹の目、ミミズの目とか使う言葉が違うけど、言いたいことは同じ様なことです。
あくまでこれは私なりの言い方と解釈ってことを前提に読み進めて頂けると嬉しいです。
今回は少し普段の投稿内容とは違うものになっていますが、それはそれとして・・・。
生きている世界は同じだが・・・
渡り鳥として美しいとされるカモメ。
古くからの童謡にも登場する生物であり、天空を羽ばたく姿は非常に素晴らしい。
舞い続けるその眼差しからみえる世界はより多くの景色を捉えていることでしょう。
かたや湿っぽい暗がりに生息して悪食として名高いゴキブリ。
決して種が滅びることがない屈強な生物でありながら、見るものを嫌悪感に陥れる類を見ない生き物であったりします。
天と地の開きがあるこの2種ですが、同じ世界、同じ地球に生息していることには変わりがない。
しかし、その眼差しから見える世界は明らかに違うことは想像に難くないわけです。
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二種類の目を持つことで
カモメはより多くの世界を見ることが出来ている筈。
しかし、決して踏み込めない領域が確実に存在しています。
何故ならば飛んで渡り歩くということしか出来ないからです。
かたやゴキブリはどこにでも入り込むことが出来て、カモメには認識できない小さい世界を認識することが出来る。
飛ぶことは出来るけど、カモメの様に大空を舞うことはできない為に、大きな力に叩き潰される危険性と隣り合わせであったりする。
そして、この二つの生物の特性を認識できるのが、我々、人間です。
カモメの様に広い目で世の中の流れを見て、時間に身を任せて自然の風に乗るタイミングを見定める。
ゴキブリの様に緻密に素早く無から有を生み出す為に、自分の思念を形に変えて繁殖させていく。
どちらの眼差しも大事に自分の力として使っていくと、あることに気づくことがある。
そして、どちらかに極端に偏っていると、更に気づくことがあったりします。
第三のまなざし
カモメの眼差しのままで、全てを見ていると、ある時、虚無感に襲われる。
結局、物事は単純そのものであり、生まれては滅するだけであるということに気づく。
要するに退屈な気分が高じて、そもそも自分の存在価値などは取るに足らないものであることを自覚してしまうわけです。
ゴキブリの眼差しで、その先を見ていると、常に動き続けていないといけない焦燥感を持ち続けることになる。
常に何かに怯え続けて、永遠と終わりなき無間地獄のような状態に囚われ続けていく。
二つの眼差しで見てしまった人のみに開眼する第三の眼差しというものがある。
ある時はゴキブリのまなざしで汚れながらも、深く細かいところに潜り込んで、自分を欲望を満たす。
満たして得た欲望の形を今度はカモメのまなざしで、どこに投じるのかを見定める。
自分がそれらのまなざしで見て、動いた結果が満足を得るものであれば気づくはず。
自分は自由自在であったということに。
それこそが本当に自分自身が悔いのない一生を送る為に必要な視点であったりします。
何となくスピッツの【ロビンソン】を聴きながら、大事にしている考え方の一つを書いてみました。
仏教で言うなれば『空』と『煩』であり、そのどちらでもない『中道』に行くためには、どちらもみていないと辿り着くことは叶わない。
最後まで読んでくださって
ありがとうございます。
感謝しております。
Everything is going well!!
全てはうまく行きます。
それでは、またね^^