2018年は一年を通して、自由気ままに生きれたものの、あまり良い年であったと振り返ることは出来なかった。
期待していた人や世界の流れ。
自分自身が新しいことをやろうとして、普通の人がドン引きするくらいの努力をしても、報われることはなかった。
それでも私は『ありがとう』という言葉を言い続けている。
そもそも人や自分以外の外の世界に期待しても、それは単なる自分の思い込みでしかないことは、『あの時』、既に分かっていたから。
うまくいかないのは、何がどうあっても自分のせいであり、自分の力量不足でしかない。
4年前にたった一人で生きることを決意し、家族を捨てた私にとって、過度な期待は時に絶望に変わるということを嫌という程、痛感していたから。
しかし、2017年、ようやく仕事という当たり前の行為から脱却し、望むがままの自分を生きれるようになってからは、どうやら心に贅肉がつきだしたようだ。
だからといって、後悔はしていない。
それはそれで楽しい時間を満喫できていたから。
だけど、それと同時に自分が築き上げてきた、あらゆるものを投げ出す行為に繋がったとも言える。
私は自由な時間があれば、沢山のお金も人間もいらない。
だけど、そんな平和な時間は、いつしか勝手に切り替わるこの社会の中では永続的に続かないものだと、改めて再確認できた。
そう言えば、ギラギラしていた時は、今思い出せる中では2016年頃だったか。
会社の仕事を誰よりも早くこなそうと、何百、何千と繰り返した作業の改善を試みていた自分。
会社が終わったら、副業のことを考えて、寝る時間も惜しんでパソコンのキーボードをひたすら打ち続けた日々。
平和ボケした私からすれば、あの時の私は邪悪である。
だけど、その位のポテンシャルがあったからこその結果を出せたと思っている。
そして、邪悪な活力に満ちていたあの時の自分の生活は、むしろ眩しく思える残照として今、輝いている。
何かにがっついている自分は好きになれない。
何故ならば、それは私が脱却した労働と変わらないと感じているから。
だけど、労働にも二つあって、仕事と言われる与えられるもの。
もう一つは自らが進んで活動するというもの。
自らが進んで本来は嫌なことをするというのも、またこれも自由の証である。
そして、敢えて枷があるからこそ、湧き上がる力があるということを、最近は特に感じ始めている。
当然、それもこれも全て己の為にすることであり、誰からも要求されることもないし、誰の為でもない。
自分があらゆる力を持つことで、隣にいてくれる人の助けになるのであれば、それが一番、素敵な人生と言える。
まあ、何を言いたいのかといえば、楽しければOKってシンプルな結論にいきつくんですけどね。